昭和40年11月26日 夜の御理解



 「元気な心で信心せよ。」生き々とした心で信心せよ。生き生きとした心とはどんな心だろうか。元気な心で信心せよと仰るが、元気な心とはどんな心だろうか。確かにこの生き々とした心元気な心で神様にお縋りする。又は近づかせて頂かなければ神様との本当の交流が頂けない。これは私の何回もの体験ですけども、此処へ座らせて頂いておってからも何回も御座いましたが、確かにこの神様はね、電気体の様なお方です。何かその一つのエレキと云った様なものに掛かるとですね。
 もう体がしびれて仕舞うです。そのしびれたとを自分で、金光様金光様、私しゃこれでしまえるとじゃろかと思う事がある、ひどい時があるです。いわゆる電気にかかる、死ぬ時はこんなこつじゃろかと思う位ひどい時がある。それから覚めた後には、口の中がすいぃ物が上がって来る位にある。そう云う様な事から、私は何時も、確かにこの神様は、丁度電気体の様なお方であると云う事を、私は感じますですね。
 ですからその、この電気なら電気でも、その竹枯れた木とか竹とか、云った様なものを持って行ってもびりっとも来ない様なもの、それは水気のあるものとか、生々しい私共がそれに触ると、電気に掛かる様にです、それを一つの道をもって、電線なら電線のひとつを辿って、それが電灯ともなれば、こんなテープならテープと云った様なとにも、様々な電気をもって、動くところの働きと云った様なものがある様に、それが枯れておっては電流が通って来ない。
 信心とは私共と神様とが通い会うと云う事。通い会うと云う事は、神様が電気体の様なお方であるのですから、こちらが生き生きとした心をもってしなければ、生き々とした心、神様には通わない。元気な心をもって信心せよと仰るその事。そんなら元気な心とは、どういう様な心かと思っておるとですね、難しい事かと、そうでもない様です。今日は、あの私、午前中奉仕の時にある方がお参りして見えました。
 この頃時々お参りして見えるんですが、もとは三井郡で一か二かと言われる程に大変な物持ちでした。そこの娘さんですけども、その町内の方達が、自分とこの屋敷は町道にしたいから譲って呉れと、こう言われる。何の為に言われるかと云うと、ここんとこ一、二軒家がある為にその奥の方へ、それでその為に、わざわざ町会議員を使うてこれを町道にしてくれとこう云う、言われる訳ですね門内中から。
 ところが自分としてはもう是は、自分とこのギリギリなくなって殆どしもうておる中に、この屋敷だけは取り留めておるのだから、是からは一寸でも減らしたくないと云う、まあ思いなんですね。それもそこの婆婆しゃまが十三、四年前にここにお参り見えとった事があるんです。そしてその今でもちょっとローンをしておられますけど、もこれだけは何時も行ったら言われるそうですが。
 椛目の先生は、私は一番初めに参った時には、こげんなる事はちゃんと十五年前に言い御座ったち云うてから、こんなに没落してこの様になって仕舞う事が、けれども必ずあぁたんとこの家はね、二カ所から又芽が出る様なおかげが頂かれると云う事を。そのなるほどそう言や、私がそんな事頂いた事を記憶してるです。ですから息子さん達が、今久留米の方に行っとられます。
 本人達はこちらの田舎におられるんだけれども、だからそちらとこちらから芽が出るに違いないから此処はとっとかにゃならんとこう言われる訳なんです。それをもう、強引にそのそれこそ血も涙もない様にして、これを町道にして呉れと、町の為だからこの一点張りで押してこれるとですから、以前は自分の所の男をしておられた方です。下男をしておられた方に、その事門内におられるから頼みに行かれた。
 けれどもけんもほろろもない。そりゃあぁた町内の事の為になるこっちゃけん、しなさるがよかですばいち、返って向こうの方にあれすると言う訳ですね。それで何とかおかげ頂きたいと云った様な事だから、ここん所少し向こうのとこの土地を買うて、向こうにそれを提供したらそれを言われんだろうから、その買うお金も今はないと言う訳なんです。その事をお取次さして貰いよりましたらですねあの袖と言う字を頂いた。
 ネを書いて由と言う字を書いてある。そして御理解にですね、〇〇さんあの金光様の御信心はね、難儀な時に神様に一心にお縋りをする。例えて云うならばです、本当に袖に涙の掛る様な時に神様にお縋りをするのだと。ですからある人は詠うた。「袖に涙のかかる時、人の心の奥ぞ知られる」本当に自分がじゃんじゃんしておる時には用のないもん、でも〇〇さん、さあ旦那様の奥様のと云うて来よったけれども。
 さぁ自分方が落ちぶれてしもうたり、自分とこにそれこそ縁起のあるその人すらがもう冷たくなってしまうと、云う様なまあ気持ちを詩にしたのでしょうね。「落ちぶれて袖に涙のかかる時 人の心の奥ぞ知られる」本当に人の心の冷たさにです、泣くにも泣かれんと云う様な風で、その泣きながらお届けをされるんですね。ですから、このお道の信心はね、そういう難儀な時にです、人の心の奥が分かるのじゃなくて。
 神様の心の奥が分かるのだと、どうぞ元気な心で信心して下さいと。神様もあちらとこちらが確かに二カ所から又芽が出るとこう言って下さるのだから、あぁたんとこの先代は、それこそある教会の総代、家も大きな家をお供えになったり、それから大きな建築の御用頂かれたり、それこそ教会の為に大変尽くされた先代がおられるのですから。そういうお徳ででもです、おかげ頂けるだろうから。
 その芽が出る時があるに違いないからどうぞ今、自分が落ちぶれているからも、本当に人が冷とうなったと云う所に、嘆き悲しんだりする心でです、神様に縋って見えなさい。私が今頂きますのは、この袖と云う字を頂く。ですからその袖と云う字の下の方の由と云うところ、下の方へもうちょっと突き出して御覧。神と云う字になろうが。袖と云う字が下の方がちょっと突き出したら神と云う字になるでしょうが。
 だから元気な心とはね、言わばですその生き々とした心。たった是だけの事なんです。是だけの事。例えば今村さんが以前は熱心に参って見えよった。所がその後はすっぱり信心を止めておられた。けれども又今日こんだ或難儀なことでこうして日参り夜参りなさっておられる。ですから必ずもそれが元気な心が、これはも朝の御祈念に参って来なさる。それが元気な心かと云うとそうしとると云う事ではない。
 元気な心と云うのはですね、このちょっとしたこれから先の事なんだ。それが神になる所の心なんだね。それはどう云う事かと云うとですね、例えばはぁこげな事じゃおかげ頂ける筈が無い、本気で信心さして頂くぞと云ってさせて頂く、そこだけが生き々とした心なんです。しかもその心はです苦しさもなければ情けないもない。人の心が分かって涙が出ると云う事もない。
 はぁこの事で神様の心が分かったと云う心が生き々した心であり元気な心であると云う事。今日私頂いた。だから皆んなが此処で思うておるでしょう。御造営も本当に超椛目の場合非常時だと。丁度一年前に久富勇さんが招集令状受けられたお夢を頂かれた。招集令状を来たと思うて打ち込めと云う様な御理解を頂いた。一年前であった。夕べは繁雄さんがその道造りをしておられるお知らせを頂かれた。道造りから帰らして頂いた所から家赤紙が来ておった。
 これは自分の家内の久富久子と書いてあった。しかも村内に五人も来て御座るげなと、招集が来とるげなと言うと子であった。信心ない人はもうそれこそこれから自分が招集されたらどうするじゃろか泣きわめきして御座った。それを久子さんが今頃泣いたってどうすんの、お国の為じゃけんあんた行かにゃでけんじゃんのと云って励ましておられる所で目が覚めたとこう云う訳。
 それはいろんな深い意味が御座いましょうけれども、確かに既に非常時に入っておった。もう現在は男だけではない。さぁお父さんあなたは、道作り私は招集令状受けた積もりで、と云った様な超非常時といったら、今より他においてはないだろうと、のほほんとしとったっちゃならん、本当にその気でおかげ頂かにゃいけん。だから皆んながそういう中にあるから、はぁこげなこっちゃいかん。
 こげなこちゃおかげ頂かれぬ、まいと思うとられると云う事は、それは丁度袖と云う所まで来とるとこじゃないだろうかと私は思うのです。ですから、こげなこっちゃいかんと思う心で、こげなこっちゃいかんと思う所をもうちょっと一押しをさげた所に神の字になる。神心の神の字になる。神心の神と云う字になる。しかもその押した心はです、寒かっても寒さを感じん。暑かっても暑さを感じん。
 朝早う起きても眠さを感じんと云う心をもって、生き々した心だと云うた事になる。そういう生々とした心をもって、神様に打ち向かうから神様は生きて御座る、いわゆる電気体と同じこと。是が交流しない筈が無い是は私がもう何時も申します様に、御祈念さして貰う時に御祈念しようがて、皆んなが御祈念さして頂くと合掌しておるこの高々指のここから、確かに神様のひとつの電気体の電気の様なものをこれから感じる。
 ジーンとする様なものをこれから感ずるのです。ですから私は感じません、そりゃあんたの心が、生きとらんけんでと云うことがいえる。生き生きとした心と云うのがです、神様へ一番大事なのである。元気な心でそういう心、生き生きした心、ほんとに術ないこちゃある。昔はあれじゃったけど、こげんなってしもうてからなんち情けないじゃろかち、云って涙に明け暮れしとると云う事では詰まらん。
 いわば泣き泣き、例えばお、参りしとる様なこっちゃ詰まらん。はぁほんにそうじゃろう、神様に打ち向かう事はそういう心だろう。本当に今こげなこっちゃおかげ頂くまい、と思うておる所をです、本気でその気にならせて頂く。そこんところが生き生きした心、そこにはもう暑さも感じん程の、寒さも感じん程の心なのである。そういう心に、神様に打ち向かうそこに、私はスイッチを一つ押せば、例えば扇風機も動くだろう、電気ストーブもガアーッと付くだろう。
 精米所もガバアーと回すだろう。製材所の言わば機械もガアーッと回り出す様なそれこそ元気な力をもって為す様な働きがです、私共の身辺にです、日常生活の上に生き生きとした比礼、おかげとなって現れて来るんですね。今日私は元気な心と云う事ね、元気な心とはどげな心じゃろか、元気でお参りをするとか修行するというだけではない。生き々とした心でと云うが、生き生きした心とはどういう心だろうかと。
 はぁこげな事じゃいかん、これじゃいかん、これは改まらにゃ、その改まる本気で改まると云う様な心、本気でこげなこっちゃいかんと思う事をそうと分からして頂く心。しかもその心と云うのは、暑さも寒さも、涼しさも感じない程の心、そういう心をもって、生き々した心だと、云う事になるんですよね。どうぞ生きた、生き々した心で、神様に打ち向かわなければなりません。
   どうぞ。